「記紀神話や伝統的な民話などに登場しない謎の神で諸説あるが、「荒覇吐」「荒吐」「荒脛巾」「阿良波々岐」などと表示され、現代でも全国各地の神社でひっそり祀られている。但し、客人神(門客神)となっている例が多い。これは、「元々は主神だったのが、客人(まれびと、まろうど)の神に主客転倒したもの」といわれる(cf. 地主神)。

 

神社では、脛(はぎ)に佩く「脛巾(はばき)」の神、また「足の神」とされてきた。(多賀城市の荒脛巾神社の祭神「おきゃくさん」は、旅人らから脚絆等を奉げられてきたが、下半身全般をも癒すとされ、男根像も奉げられる。(cf. 金精神))

 

明治の神仏分離以降、各神社の祭神は記紀神話の神々に比定され変更されたが、荒脛巾の場合は「脛」の字も相まって、大和王朝(神武天皇)に敗れた側の「長髄彦」とされることがある。

 

古史古伝『東日流外三郡誌』の影響力が強く、偽書とされながらも、その後、アラハバキ「縄文の神」説、「蝦夷の神」説は定着している。遮光器土偶のイメージとしても世間には広まった。」

 

Wikipedia "アラハバキ" より

 

荒 覇 吐

アラハ ト

Arhat

阿羅漢

 

「仏教用語の阿羅漢(あらかん)とは、サンスクリット: अर्हत् , arhat(アルハット)、パーリ語: arahant(アラハント)に由来し、仏教において最高の悟りを得た、尊敬や施しを受けるに相応しい聖者のこと。

 

この境地に達すると迷いの輪廻から脱して涅槃に至ることができるという。略称して羅漢(らかん)ともいう。サンスクリット語arhat の主格 arhan やパーリ語 arahant の音写語。漢訳には応供(おうぐ)という意訳もある。」

 

Wikipedia "阿羅漢" より

 

Arhatは古代タリム盆地のホータン(和田)の住民と伝わりますが、本来仏教徒の聖者「阿羅漢」を指すサンスクリット語です。

 

今春、念願の丹内山神社参拝において、拝殿に掲げられた牛の頭が、アラハバキは阿羅漢を指すサンスクリット語Arhatの当て字「荒覇吐」の誤読であると教えてくれました。

 

荒覇吐神とは、アショーカ王によって派遣され、ホータンから日本列島に渡来した阿羅漢率いる仏教使節団を指すものと思われます。

 

ゲーテのメフィストフェレスの姿を研究してみると、ゲーテがいたるところで、メフィストフェレスの性格づけの中で、ルツィフェル的要素とアーリマン的要素とを混同しているのが分かります。ゲーテのメフィストフェレスの姿には、二つの要素が混ざっています。統一させているのではなく、ルツィフェル的な要素とアーリマン的要素をまぜこぜにしているのです。

 

ゲーテの『ファウスト』の中にまで及んでいるこの混乱が生じたのは- 以前の時代では違っていましたが ー、近年になって、三の数の代わりに二の数を尊重しようとする妄想が支配的になったことの結果でした。すなわち、一方に善の原理が、他方に悪の原理が、神と悪魔とが働いている、という宇宙構造が支配的になったのです。

 

大切なのは、宇宙の構造に目を向けるとき、三の数を大切にしなければならない、と考えることです。ルツィフェル的要素とアーリマン的要素を対置し、この両方の間に均衡を保ちつつ神的なものが働いている、と考えるのです。人類の精神の進化の中に、神と悪魔の両極性を、上なる神的、霊的な力と下なる悪魔的な力との対比を持ち込もうとすると、妄想に陥ってしまいます。人間を均衡状態から強引に引き離し、宇宙理解の本来の目標が三の数を正しく用いることにあるのを隠して、宇宙の構造が二の数に基いている、と信じて込ませることに成功すれば、人間はどんなに努力しても、この誤謬から抜け出せなくなるのです。

 

人間が自分の神的な本性たちだと思えた本性たちを一度概念として把握しようとするのなら、こう言えなければなりません。ーその本性たちをルツィフェル的原理とアーリマン的原理との間で均衡を保つもの、と考えるときにのみ、その本性たちを正しく感じとることができる、と。

 

三分節化するのでなければ、自分の神的なものを決して正しく感じとることはできません。どうぞこの観点に立って、ミルトンの『失楽園』やこの『失楽園』の影響の下に作られたクロプシュトックの『メシア』のような詩を考察してみて下さい。そこには基本的に三分節化された宇宙構造についてのどんな理解も見出せません。そこに見出せるのは、善と思われているものと悪と思われているものとの戦いだけです。そのように人類の精神の進化の中に、対極性という妄想が、持ち込まれたのです。その結果、大衆の意識の中に多様な仕方で根を下ろしている天国と地獄の対立という妄想が、この二つの近世の世界詩の中にまで持ち込まれたのです。

 

ミルトンやクロプシュトックが天上の存在たちを神的存在たちと呼んでいることは、何の役にも立ちません。人間が感じとるべき神的存在たちであるためには、三分節化された構造がその宇宙的生存の根底にあるのでなければなりません。そのとに初めて、善の原則と悪の原則との間の戦いに意味が生じるのです。

 

けれども、事情はどうあれ、今は二分節化が前提にされています。ですから、この二分節化の一方の側に善が結びつけられて、この側の存在たちのために本来、神に由来する名前が付与され、そしてもう一方の側には、悪魔の要素、神に敵対する要素が結びつけられているのです。しかし、そうすることで、実際には何が生じたのでしょうか。実際には、本来の神的要素が人間の意識から取り除かれ、ルツィフェル的なものに神の名が付与され、ルツィフェルとアーリマンの戦いに際しても、アーリマンにルツィフェル的特性が付与されて、ルツィフェルの国に神的特性が付与されるだけのことでしかなかったのです。

 

そもそも今述べてきた考察の及ぶ範囲がどれほど広いものか、どうぞ考えてみて下さい。人びとは、ミルトンの『失楽園』やクロプシュトックの『メシア』に見られるような対比によって、神的なものと地獄的な要素とを対比していると信じていますが、真実はルツィフェル的要素とアーリマン的要素とが対比されているにすぎず、本当の神的要素は、まったく意識されていないのです。その代わり、ルツィフェル的要素に神の名前がつけられているのです。

 

さて、ミルトンの『失楽園』とクロプシュトックの『メシア』は、近世における人類の意識が生み出した精神的所産です。これらの文芸作品の中に生きているものは、人類の一般的な意識なのです。二分法の狂気がこの近世における人類の意識の中に取り込まれ、そして三分法の真理が排除された結果、生じた意識なのです。

 

この狂気の中で働いているすべては、基本的に、アーリマン的な影響の産物なのです。事実、私たちが今その中に立っている、この途方もない狂気は、近代文化、近代文明を生きる人たちのいる、いたるところから現れてくる「天国と地獄の対立」という幻想が惹き起こした結果にほかならないのです。「天国」は、神的なものと思われています。そして「地獄」は、悪魔的なものと思われています。けれども本当は、一方では天国的と呼ばれたところにはルツィフェル的なものが、そして地獄的と呼ばれたところにはアーリマン的なものが、幅を利かせているにすぎないのです。

 

ルドルフ シュタイナー『ミカエルの使命』

私たちの時代に続いて六番目の文化期がやってきますが、その文化期のことを想像してみて下さい。霊的世界の源泉から汲みとられるものが、独立して自由になった人間の魂と結びつかないとしたら、どのようなことが起こるでしょうか?

 

人類進化における個人の(発達終了)年齢は、21年目から14年目に相当するようになります。30歳、40歳、50歳と年を重ねていっても、自身の内に火を灯して発達を続けていかなかったとしたら、中身は17歳、16歳、15歳のままになるのです。

 

人類進化にとって重要なことは「地球の進化が進めば進むほど、人類の進歩は人間自身の手に委ねられるようになる」ということです。しかし、もしこの「人類の進歩が人間自身の手に委ねられる」ということが認識されないとどうなるでしょうか?

 

早発性痴呆症(現在は「統合失調症」と呼ばれている)が、まん延するのです。ですから、地球という存在の深部を見つめ、人類を脅かしているものが何であるかに気づくことが必要だとおわかり頂けるでしょう。

 

今日、外的には多くの勇気ある行為がなされており、それはもちろん高く評価されるべきことです。しかし、人類が、これからの進化過程で必要とするのは、魂の勇気です。つまり、最初は喜ばしくない不快なものに感じられたとしても、真実に向かう勇気です。

 

人生に快適さや喜びだけを求め、自分を言わば「高揚させる」ような知識だけを聞きたいと願うならば、そうした真理を不快に感じるでしょう。そのような人は楽しい真実を求めたがるものだからです。おそらくそうした状況が、現在非常に広く行き渡っています。

 

たとえ必要なことであったとしても、誰かがあなたに快くない真理を語った途端、あなたはその人を愛せなくなるのです。その人が自分をひどく苦しめる、自分を高揚させてくれない、と思うからです。

 

しかし真理は、口なめらかに流れ出て、清涼剤のように持ち帰ることのできる言葉などよりも気高いものなのです。それよりも気高いのは、知識から得られる満足感です。安易な快適さではなく、真理と必然性の中に生きることに根差した知識から、そうした満足感は得られます。

 

ルドルフ シュタイナー『人間発達論 バイオグラフィーワークの背景』

27歳と人類の意識の進化 人類進化の様々な側面 第1講

内村真澄 訳

 

#認知的不協和

「人びとは時々、核となる非常に強い信念を持つことがあります。その信念に反する証拠を提示されたとき、その新しい証拠は受け入れられません。認知的不協和と呼ばれる、非常に不快な感情を引き起こすのです。そして核となる信念を守ることが非常に重要であるため、彼らはその核となる信念に合致しないものを合理化し無視し、さらには否定するでしょう。」

 

 

なぜ色々な人々が、しばしば非常に変わったやり方で「地上の人間存在が本当は何なのか」を明らかにしようとするのか、それを理解しようとするとさまざまな事柄に行きつきます。とりわけ、人間存在に関する大きな疑問ということになると「人びとはあることを達成する準備ができていない」ということに気づきます。それを達成する必要性については、日々のあらゆる場面で、頻度は少なくないにしても確実に認められているにもかかわらず、です。つまり、希望的観測によって自分にとっての真実を曖昧にしてはならないこと、そして自分が真実であってほしいと願ったものが、真実の客観性の基準にはなり得ないことを、人々は日々のあらゆる機会に認めているはずなのです。

 

普段の生活の中で小さなスケールであれば誰もがすぐに認めることですが、大きなスケールになると、人間が現実にかなった人生哲学に到達できないのは、真実を把握しようとする際に自分の願望を持ち込まずにはいられなかったからに他なりません。そして、無意識の願望とでも呼ぶべき願望が、大抵の場合、最も大きく影響するのです。そのような願いが魂の中に存在していると人々は認めませんが、そうした願いは魂の中に潜在意識として、無意識のまま存在しています。そのような願いを意識化することによって、幻の人生から解放され、真実の領域に入ることこそが、精神科学のトレーニングの役割なのです。

 

こうした無意識の願望は、特に人生の最も崇高な真理が作用する際に、すなわち人生そのものの本質に関する真理、物質世界における誕生から死までの通常の人生に関する真理が作用する際に、影響してきます。客観的で現実に即した正当なアプローチをとりたいならば、人生を理解するために、常に人生の全過程を眺める必要があります。このような、現実に即した人生の研究が、ある人が全く望まないような、潜在意識においても望まないような結果をもたらしたと想像してみてください。そうするとその人は、その望まない結果を覆すために、見せかけの論理を駆使してできる限りのことをするでしょう。

 

地上の人生において「真実が人間の願望と一致しなければならない」ことを示すものは、本来なにもありません。無意識の願望であっても、そうです。むしろ人生についての真実は「全く愉快なものではない」と言えるかもしれません。

 

ルドルフ シュタイナー『人間発達論』

 

 

「親に依存していたことが自身で行えるようになる時期に、自我の芽生えることにより 「自分で」と主張する行動が生じる。発達の程度により様々なイヤイヤがあり、 大人の見解とは逆の主張が行われることもある。」(Wikipedia ”反抗期”より)

 

子どもたちは、およそ10歳前後の自我の発芽時期に、親との関係において「わたし」を定義するとき、 何らかの信条を持ちます。それは”Core Belief”と呼ばれ、一般的に次のように表すことができます。

 

ぼくは/わたしは〇〇しなければならない。(〇〇しないと愛されないから。) 

ぼくは/わたしは✕✕してはならない。(✕✕したら叱られるから。)

 

そしてそれらの核となる信条と一体化した後、子供たちは、その信条の内容が正当であるという証拠を、 世界に探し求めることになるのですが、その前に子どもたちは困難な時期を迎えます。それは「反抗期」です。

 

およそ15歳前後に発達を始める魂の体=アストラル体が、自我の信条と衝突するようになります。 「反抗」は子どものアストラル体と、親や周囲の大人の意向を反映した自我の信条との間に生じる、 葛藤と見ることができます。未熟な自我は、信条を盾にアストラル体を抑え込もうとしますが、 この時期の魂体の勢いに勝つことはできず、その信条を持つに至った人間関係に責任を転嫁し、 親や周りの大人を批判や否定したり、拒否あるいは無視するようになるのです。 ですから子どもたちにとって反抗期とは、アストラル体が、信条という親や大人たちによる刷り込みや限定から、 自我を取り戻す試みと言うことができます。

 

アストラル体による自我の信条に対する「脱構築」のこころみは、一般的に20歳の頃までには完了すると 考えられますが、アストラル体の発達が落ち着いた21歳頃以降は、アストラル体の働きかけによって、 必要な変更や修正を施された信条に基づいて、およそ42歳の頃まで、自我の発達段階に移行します。

 

反抗期の子どもを持つ親たちは、子どもたちに対して、それまでどのような意識状態で接してきたか、 どのような意図で働きかけてきたか、どのような言動で向かい合ってきたか、それらが子どもたちの魂によって、 「事前に」審判されるという、大変貴重な時期を、子どもたちと共に経験をしていることになります。 子どもたちの反抗は、おそらく親たち自身の子ども時代の姿を映し出している鏡を見ることになるため、 直視することが難しいケースもあるかもしれませんが、子どもたちの魂からの大切な贈り物と見ることもできるでしょう。

 

松果体と愛のワークショップでは、先ず子どもの反抗期を経験している親たちの信念と、問題を複雑化している 可能性のある家族の信念を探ります。そして該当する信念が、子どもたちが自らの魂の健全な発達のために、 葛藤を自分で乗り越えるプロセスを阻害すると判断された場合、本人が望む限りにおいて削除していただきます。

 

「親子」というアイデンティティが創り出す「反抗期」の元型は、当事者である親の信念とその写しとも言うべき 子どもの信条に応じてシナリオを書き、それを親自身と子どもに演じさせ、親に対する子の反抗として経験させます。 親たちの信念が創り出す元型のなかで、子どもたちの魂の体は、自我に懸命に働きかけ、内なる世界に「調和」を 創り出そうとしているかのようです。

 

反抗期の子どもたちに対して親たちにできる最善のことは、子どもたちの魂の自然な成長を妨げるような信念を手放し、 子どもたちの魂の健全な発達のプロセスを信頼して、いつもハートを開いて笑っていることです。 子ども時代のわたしたちが、親たちに、いつもそうしていてほしかったように。。

 

 未来像をもってプロセスを信頼してください。 

そうすれば魔法を見るでしょう。