ゲーテのメフィストフェレスの姿を研究してみると、ゲーテがいたるところで、メフィストフェレスの性格づけの中で、ルツィフェル的要素とアーリマン的要素とを混同しているのが分かります。ゲーテのメフィストフェレスの姿には、二つの要素が混ざっています。統一させているのではなく、ルツィフェル的な要素とアーリマン的要素をまぜこぜにしているのです。

 

ゲーテの『ファウスト』の中にまで及んでいるこの混乱が生じたのは- 以前の時代では違っていましたが ー、近年になって、三の数の代わりに二の数を尊重しようとする妄想が支配的になったことの結果でした。すなわち、一方に善の原理が、他方に悪の原理が、神と悪魔とが働いている、という宇宙構造が支配的になったのです。

 

大切なのは、宇宙の構造に目を向けるとき、三の数を大切にしなければならない、と考えることです。ルツィフェル的要素とアーリマン的要素を対置し、この両方の間に均衡を保ちつつ神的なものが働いている、と考えるのです。人類の精神の進化の中に、神と悪魔の両極性を、上なる神的、霊的な力と下なる悪魔的な力との対比を持ち込もうとすると、妄想に陥ってしまいます。人間を均衡状態から強引に引き離し、宇宙理解の本来の目標が三の数を正しく用いることにあるのを隠して、宇宙の構造が二の数に基いている、と信じて込ませることに成功すれば、人間はどんなに努力しても、この誤謬から抜け出せなくなるのです。

 

人間が自分の神的な本性たちだと思えた本性たちを一度概念として把握しようとするのなら、こう言えなければなりません。ーその本性たちをルツィフェル的原理とアーリマン的原理との間で均衡を保つもの、と考えるときにのみ、その本性たちを正しく感じとることができる、と。

 

三分節化するのでなければ、自分の神的なものを決して正しく感じとることはできません。どうぞこの観点に立って、ミルトンの『失楽園』やこの『失楽園』の影響の下に作られたクロプシュトックの『メシア』のような詩を考察してみて下さい。そこには基本的に三分節化された宇宙構造についてのどんな理解も見出せません。そこに見出せるのは、善と思われているものと悪と思われているものとの戦いだけです。そのように人類の精神の進化の中に、対極性という妄想が、持ち込まれたのです。その結果、大衆の意識の中に多様な仕方で根を下ろしている天国と地獄の対立という妄想が、この二つの近世の世界詩の中にまで持ち込まれたのです。

 

ミルトンやクロプシュトックが天上の存在たちを神的存在たちと呼んでいることは、何の役にも立ちません。人間が感じとるべき神的存在たちであるためには、三分節化された構造がその宇宙的生存の根底にあるのでなければなりません。そのとに初めて、善の原則と悪の原則との間の戦いに意味が生じるのです。

 

けれども、事情はどうあれ、今は二分節化が前提にされています。ですから、この二分節化の一方の側に善が結びつけられて、この側の存在たちのために本来、神に由来する名前が付与され、そしてもう一方の側には、悪魔の要素、神に敵対する要素が結びつけられているのです。しかし、そうすることで、実際には何が生じたのでしょうか。実際には、本来の神的要素が人間の意識から取り除かれ、ルツィフェル的なものに神の名が付与され、ルツィフェルとアーリマンの戦いに際しても、アーリマンにルツィフェル的特性が付与されて、ルツィフェルの国に神的特性が付与されるだけのことでしかなかったのです。

 

そもそも今述べてきた考察の及ぶ範囲がどれほど広いものか、どうぞ考えてみて下さい。人びとは、ミルトンの『失楽園』やクロプシュトックの『メシア』に見られるような対比によって、神的なものと地獄的な要素とを対比していると信じていますが、真実はルツィフェル的要素とアーリマン的要素とが対比されているにすぎず、本当の神的要素は、まったく意識されていないのです。その代わり、ルツィフェル的要素に神の名前がつけられているのです。

 

さて、ミルトンの『失楽園』とクロプシュトックの『メシア』は、近世における人類の意識が生み出した精神的所産です。これらの文芸作品の中に生きているものは、人類の一般的な意識なのです。二分法の狂気がこの近世における人類の意識の中に取り込まれ、そして三分法の真理が排除された結果、生じた意識なのです。

 

この狂気の中で働いているすべては、基本的に、アーリマン的な影響の産物なのです。事実、私たちが今その中に立っている、この途方もない狂気は、近代文化、近代文明を生きる人たちのいる、いたるところから現れてくる「天国と地獄の対立」という幻想が惹き起こした結果にほかならないのです。「天国」は、神的なものと思われています。そして「地獄」は、悪魔的なものと思われています。けれども本当は、一方では天国的と呼ばれたところにはルツィフェル的なものが、そして地獄的と呼ばれたところにはアーリマン的なものが、幅を利かせているにすぎないのです。

 

ルドルフ シュタイナー『ミカエルの使命』