なぜ色々な人々が、しばしば非常に変わったやり方で「地上の人間存在が本当は何なのか」を明らかにしようとするのか、それを理解しようとするとさまざまな事柄に行きつきます。とりわけ、人間存在に関する大きな疑問ということになると「人びとはあることを達成する準備ができていない」ということに気づきます。それを達成する必要性については、日々のあらゆる場面で、頻度は少なくないにしても確実に認められているにもかかわらず、です。つまり、希望的観測によって自分にとっての真実を曖昧にしてはならないこと、そして自分が真実であってほしいと願ったものが、真実の客観性の基準にはなり得ないことを、人々は日々のあらゆる機会に認めているはずなのです。

 

普段の生活の中で小さなスケールであれば誰もがすぐに認めることですが、大きなスケールになると、人間が現実にかなった人生哲学に到達できないのは、真実を把握しようとする際に自分の願望を持ち込まずにはいられなかったからに他なりません。そして、無意識の願望とでも呼ぶべき願望が、大抵の場合、最も大きく影響するのです。そのような願いが魂の中に存在していると人々は認めませんが、そうした願いは魂の中に潜在意識として、無意識のまま存在しています。そのような願いを意識化することによって、幻の人生から解放され、真実の領域に入ることこそが、精神科学のトレーニングの役割なのです。

 

こうした無意識の願望は、特に人生の最も崇高な真理が作用する際に、すなわち人生そのものの本質に関する真理、物質世界における誕生から死までの通常の人生に関する真理が作用する際に、影響してきます。客観的で現実に即した正当なアプローチをとりたいならば、人生を理解するために、常に人生の全過程を眺める必要があります。このような、現実に即した人生の研究が、ある人が全く望まないような、潜在意識においても望まないような結果をもたらしたと想像してみてください。そうするとその人は、その望まない結果を覆すために、見せかけの論理を駆使してできる限りのことをするでしょう。

 

地上の人生において「真実が人間の願望と一致しなければならない」ことを示すものは、本来なにもありません。無意識の願望であっても、そうです。むしろ人生についての真実は「全く愉快なものではない」と言えるかもしれません。

 

ルドルフ シュタイナー『人間発達論』