信念とは何でしょうか。何かを信じるとは、一体どういうことなのでしょうか。思考の働きによる想念や、感情の働きによる情念とは何が違うのでしょうか。松果体と愛のワークショップでは「信念」を「何らかの価値判断を伴った想念や情念」と定義します。

 

自我は人生のなかで、想念や情念などの魂の働きに対して下される あらゆる価値判断を通して、自己正当化のために信念体系を創り上げますが、特に、真偽 正誤 善悪などの対立する二項のうち、どちらか望ましい方の価値と結びついた信念と一体化しようとします。

 

〇〇は危険だ、という考えは正しい。

〇〇は安全だ、という考えは誤りだ。

 

ですから「何かを信じる」という行為は、アストラル体による魂の働きに対して、自我による価値判断を加えた結果生じる、異なる本性に由来する意識の癒着や膠着状態を表現していると言うことができると思います。

 

シュタイナーによりますと、人間のアストラル体と自我の歪んだ関係は、ルシファーの誘惑が原因だと言います。 ルシファーの誘惑とは一体どのようなことで、それによって人間に何が生じたのでしょうか。

 

「ルツィフェルは、人間の自我にこう語りかけました。―私は現代語に翻訳して申し上げます。― 「いいかい、それでは退屈してしまうよ。君たち人間は、いつもこの唯一の中心点である 『私である』を持ち廻って、『私』以外のすべてをただ観察しているだけではないか。 君は君のアストラル体に沈潜すればよい。その方がずっと気が晴れる。 

 

私は君に、アストラル体に沈潜する力を授けよう。そうすれば君は、一方的に、 君の自我だけで立ち、君の道連れ(ドッペルゲンガー)を見続けなくてもすむはずだ。 ただ道連れの中に沈潜すればいいのだ。もしも君がアストラル体の中に沈潜してしまい、 いわば溺れてしまうようなことになったなら、私の力で君を助けてあげるから」。

 

こうして自我はアストラル体に沈潜しました。 そして溺れてしまわないように、ルツィフェルの力を植え込まれました。 人間が受けとったルツィフェルの力こそが、アストラル体に対する自我の優位なのです。 これは本来のルツィフェル性とも言える、より大きな自我なのです。 ルツィフェルの本性は、超大化した自我となって私たちに働きかけてくるのです。 

 

その働きかけは、私たちが自分の思考内容、感情、意志と渾然一体となったときに生じます。すべての啓示から自立して自分だけで判断するのは、私たちの内なるルツィフェルなのです。 人間が理性を自分のものであると見なす限り、どんな理性も間違っています。 「人間は理性を持たなければならない」と考えるのは、ルツィフェルの誘惑なのです。」

 

ルドルフ シュタイナー 『内面への旅』高橋巌 訳

 

あらゆる信念が自己正当化に傾くことの理由は、ルシファー本性を理解することによって明らかになります。 ルシファーが創り出した、アストラル体に対する自我の優位性によって、 自我はアストラル体から受け取ったものに、限定的で主観的な価値判断を下します。このようにして形成される信念は、自己正当化の傾向を免れないのです。

 

「ルツィフェルの力が自我に加えられたことから、一切のルツィフェルの影響が生じました。 人間の自我は、思考、感情、意志と不純な形で結びつき、そしてアストラル体に対するルツィフェル =自我の優位性を生じさせました。そして今、人間存在は均衡を妨げられています。」(同上)

 

ですから信念とは、ルシファーの誘惑と介入による、アストラル体と自我の癒着、つまり、 アストラル体に対する自我の沈潜と優位性の結果生じた、本来の魂体の働きとは異なる、自我によって歪んでしまった心の働きであると言うことができるでしょう。

 

松果体と愛のワークショップでは、アストラル体に対する自我の優位性を意図的に抑制し、 信念体系を現在時点の「わたし」が望む形で書き換えることによって、自我とアストラル体の間に、新たなバランスを創り出すことを意図します。